特になし

これと言って書くようなこともない一日。毎日全く同じわけではないが、特筆するような事のないという意味ではほとんど変わらない一日。早くそういう事をブログで愚痴りたくてウズウズして過ごした時間もあった。何かで見たのだけど、小さな子供というのは一日あった出来事を親に報告するのがとても楽しみらしい。毒親育ちのオレの場合、何か報告すれば、というより、会話すればほぼ必ず悲しい気持ちになったという残念な記憶ばかりだ。例えば小学生低学年の頃、みんなで撮った写真を貰って喜んで持って帰って親に見せた。親はそのはしゃいだオレの写った写真を見て、残念そうな顔をしながら「もっと落ち着けないのかお前は」というような事を言った。その後は何か説教されたような気もするが、悲しすぎてよく覚えていない。喜んだりはしゃいだりすると怒られたり叱られたり怒鳴られたりする。オレの親はオレに子供らしいことを望まなかった。いつから心を閉ざすようなったのかは思い出せないが、残念だ。なんであんな親の元に生まれてしまったのか。母親はよく「せっかくお腹を痛めて生んだんだから」という事を言っていた。しつこく言われたのでまるで自分が生まれなければ母親のお腹は痛めなくて済んだんだろうか、と考えた時期もあった。生まれたことを肯定してもらった記憶はない。自分たちが勝手に生んでおいて迷惑そうに育てた親の事を最悪だと思う。だが、そう思えるようになったのは最近の事だ。40歳も過ぎて数年経つ。自分が悪いのか、親が悪いのか、決着のつかないままの時間は長かった。こんなことばかり考えている自分が嫌いだが、どうにもコントロールできないので仕方がない。自分を嫌えるようになったのも最近だ。嫌われない自分というカタチにこだわって、きっとこうなら人に好かれるとか、そんな事ばっかり気にしていたら、自分の真ん中には何もないような人間になってしまった。親も自分も嫌う自由を手に入れたのは最近なのだ。オレの人生はここから始まるような気がするが、色んな意味でもう終わってもいる。あとはもう自分に与えられた時間が過ぎるまで、ぼんやりと過ごすだろう。このブログはそんなオレの最後の砦。自由に考えて自由に表現できる場所。愚痴り放題。嫌な事も言い放題。なるべく誰かを不快にしたくはないので、最低限の配慮はするつもりだけど、ほとんど誰かを気にしないで書ける場所。ネガティブな自分をさらけ出して本当の自分はこうなんだ!と叫べる場所。フォロワーもマイミクも友達もいらない場所。誰かと何かを競う必要が無い場所。綺麗な写真も面白い発想も何もなくていい場所。ただ、オレという自我だけが言葉になってここにいる。つまらない日常をつまらないと叫ぶ。手に入れたいものが手に入らないと叫ぶ。悔しい。悲しい。寂しい。どうでもいい。嫌な事ばかりだ。そもそも欲しがるから悲しみが生まれるなんて考え方もある。うるさい。欲しいものは欲しい。足るを知る事は確かに大事だと思う。でも知らねぇ。足らないものは足らない。それでいいじゃないか。欲望こそが人間を人間たらしめているんじゃないか。知らねぇ。もうどうでもいいや。つまらないんだよ。こんなことばかり考えているオレという人間が。もう自分に飽きた。これ以上知識を増やしてもこの孤独が癒えるわけじゃないのに、何かを探してネットサーフィンを続ける自分に飽き飽きした。死のうとか死にたいとかではないのだけど。とにかく嫌気の差すようなこの世の中に光が欲しい。オレだけを照らすような眩いほどの明かりが欲しい。そんなものは無いんだけどな。いつまでも螺旋状に下っていく精神状態。逆さになればいいのに。心が昇るような瞬間をいつまでも感じていたい。そのまま昇天しそうなほどの感覚に溺れてみたい。終わらない無い物ねだりが終わるのは、自分の時間が尽きる時なのかもしれないな。何の価値も感じないこの魂が尽きる時、オレは解放感に満ちているのだろうか。それともこの世に未練を引きずっているのだろうか。いずれにせよそんなのは短い間の出来事だろう。事故なら気付きもしないかもしれない。とにかく去る時は一瞬だろう。たとえ走馬燈のようなものが過っても、体感で長く感じるだけで、世の中にとっては一瞬だろう。そんな最後の一瞬なんてどうでもいいのではないか。今この瞬間こそが最も大切なのではないか。そんな貴重な時間をつまらないと感じている。虚しいと感じている。そして、オレにとって人生とはそういうもので、 別にそれが自然な事で、悲しくとも虚しくともそういうものであるのだ。幼少期に親から無条件の愛情とやらをもらえていたら違ったんだろうか。それを知る術は無いのだ。過去に戻ってこの心を癒してもらうことなどできないのだから。たくさん傷ついてボロボロで自分にすら嫌われていても歪に歪んでいても、それがオレの魂なのだ。そして、そんなオレの魂は、俗に言うような『救済』を望んでいないようだ。誰かに救われるよりも宝くじが当たるような幸運を望んでいるように感じる。だから救われないのだと言う人もいるかもしれない。そう思う人がいることは仕方ない。もう宝くじを買うのも止めてしまったので叶う事はないのだけど。 きっととにかく突然訪れる突き抜けるようなハッピーを望んでいるんだろう。そのための努力はせずに。そういう魂がオレという一人の人間の核なのである。エヘン。どうだ。クソだろう。なんて挑発的な態度の一つも取りたくなるような心境だ。

愚痴によって救われる魂

ここまで駆け足で書いて、愚痴を吐くという行為が極めて気持ちいい行為だという事を改めて感じる事となった。やめられない快感がここにはある。オレはクソ野郎だと世界に向けて叫びたい。何が人を救うのかなんて分からないものだな。ブログに書き込む愚痴がオレの魂を救うなんて思いもよらなかった。淀んだクソが濁りのない澄んだクソに進化した気分だ。自分をよく見せる必要のない場所。クソな自分を解放すればするほど心地良い場所。なんならブログの名前を『澄んだクソ』に変えたい欲求が生まれたほどには心地良い。まぁ、しないけど。とりあえず今日のところは。たぶんこの先も。

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