若き日の自分

かつての暮らしを振り返る

大学生の頃

嘘、去勢、虚飾、勢い、全部使ってでも相手より優位に立とうとする人間にたくさん出会ってきた。自分は違うと思っていたが、今思えば自分もそんな感じだった。「正直に生きる強さ」「それをベースにした人付き合いの仕方」がわかっていなかった日々。あの時間は何だったのか。人生のモラトリアム期に訪れる幾多の出会い。軽く、薄く、中身の無い関係性。そんな中で、強くあろうとして立ち回って生きた。手に入れたものは何だったのか。軽く付き合うコツだろうか、うまく立ち回ろうと生きてる人の見分け方だろうか、よくわからないが、まったく無駄だったとも思えない。いや、あの時間があったから、正直に生きる事が大切だと気付くことができたのかもしれない。

対人関係

人を出し抜く事に全力を使う。そして得られるある特定の環境での優位。自分の自尊心を満たすためだけの無意味とも思える会話。すごいヤツ、そんな風に思われる事を大事にするような価値感だった。確かにそれで甘い汁を吸えた事もある。だがそれが何だというのだろう。突き詰めるべきはそんな上っ面なものじゃない。自分を全て注ぎたくなるような対象を見つけて骨までしゃぶり尽くしたくなるようなものだ。情熱のぶつけ先はイメージばかりで中身の無いものにするべきじゃない。

中身

では、薄くなく、軽くない中身のある関係性とは何なのか。心のつながりを心の底から感じる相手と過ごし、くだらない事でも笑いあえる、そんな関係が浮かぶ。親友だと思える相手もいた。しかし、そういう関係は本当にその時、その場所に、その人間たちの中に存在はするのだが、時とともに移り行くものだという事を知った。関係が近くなれば相手への要求も出てくるし、わがままも出てくる。出さなければその先へは進めない。が、出すことでもろく崩れる事もある。永遠と思える愛情も永劫続くと感じる友情も、状況とともに変わっていくものだという事を知った。

中身が無いからこそ

うわべを取り繕おうとして、「ホンモノ(=本当にスゴイ人)」を目指しだした。自分はそこら辺のハンパものとは違う。自分の実力について誇張して言ってしまったとしても、言ったことが本当になればいいじゃないかと思っていた。今はそうじゃなくとも、そのうち辿り着ければいい。そう思っていた。しかし、ホンモノになるというのは、そう簡単な事でも、すぐにできるようになることでもなかった。自信だけがあった。自分ならできるという根拠のない確信が打ち砕かれるのは、もう少し先の話になる。

スゴイ人を目指して

とにかくスゴイと言われる人を目指していた。キッカケがあれば興味のある事には本気で取り組んだ。今思う事は、その頃の自分は結構スゴイと思う。危なっかしい生き方だし、ビッグマウスだし、何かを成し遂げられたわけでもないし、将来へのプランもない。ただひたすら見えない未来に向かって方向もわからないまま必死だった。結果、今は趣味として楽しめる事が色々と残っている。就職活動もせず、将来につながるとは思えない活動をしているオレの事を遊びまくっていると言う人たちもいたが、付き合いの浅い知人くらいの人間に何を言われても気にしていなかったし、近い友人には、何になるのかはわからないが、何か面白い事をしそうな人間として認めてもらっていると感じていた。

年齢とともに失うもの

「人は失って初めて気が付く」みたいな言葉をどこかで目にした事があるのだが、文字をタイピングしながら、今まさに失っていたと気が付いたことがある。それは「あの頃の自分」だ。剥き出しで世間知らずで野望に燃えていてガムシャラで世間のルールなんか下らないと思っていて危なっかしくて面白い事が全てだと思っていて感覚が近いと感じる人間が大好きだった自分。あの頃の自分はどこに行ってしまったのか。過去にしか存在しない自分を発見し、今の自分との違いに気付く。これが老いていくという事なのだろう。重ねてきた経験が、冒険心をそぎ落としていく。安全を優先してワクワクを失っていく。俺は燃えカスみたいなものになってしまったのだろうか。野望や野心という意味ではそうなのかもしれない。

もう一度燃え上がるには

野望の燃え尽きたような生活がどうかというと、それなりに満足してたりもする。何かが足りない気もする。もう一度燃え上がるには、何をどうすればいいのか。冒険や挑戦と思える行動を起こしてみるか。そもそも、もう一度燃え上がりたいのか。今は結論が出せない。時間をかけて考えてみる事にする。

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